すぱげっちー食べながら授業について考えてたら浮かんだのでまとめてみた。
めんどくさいこと考えながらご飯食べてました。あ、美味しいですよサポーレ(名古屋駅地下)のとまとすぱげっちー。
魯迅「故郷」について
「故郷」は変化の物語である。
故郷に帰った私は、久方に見た故郷が侘しく、活気のない、重苦しい雰囲気の場所と感じる。しかし、故郷は実は何も変わってはいない。変わったのは人間の方で、人間の価値観の変化がそう思わせるのだ。
価値観の変化した私にとって、ルントウは旧来のしきたりに縛られ、古い中国の社会の体現者であり、被害者として映る。
豆腐屋小町のヤンおばさんは、老いの醜さと人間の浅ましさ、文化レベルの低さを表している。
ホンルは、昔の自分を第三者的に見たものであり、昔の自分自身であり、またそうではないともいえる。同じ道を歩んで欲しくない、新しい生活を歩むべき存在だとして、すでに自分の希望を託しているのだ。それは、魯迅の考える「希望」が容易に叶うものでないことを示しているのだろう。だからこそ、早々に彼は次の世代に託す道を考えたのではないか。
それが「手に入りにくいもの」ということなのだろう。
ルントウの視点から見る変化はどうだろう。
生徒の感想に「なぜ、寂しさと喜びが同時に浮かんだのか」と疑問に思ったとあった。ルントウからしてみれば、私は遠い存在の人間である。否、遠くなってしまった人間である。子供時代のルントウには身分という価値観がなかったから、私と彼は対等であった。しかし、私の価値観が変化したように、彼の価値観も変化したのだ。彼の中で身分差は絶対で、社会は悪くなる一方で、常に真綿で首を絞めるが如くの苦しみに満ちている。
長らくあわなかった間に、大きく価値観を変化させた二人が再開したとき、二人の間に隔絶の壁が現れるのは当然のことだろう。それを壊すには、築き上げた人生の時間と同じだけの時間をかけるか、爆弾のように圧倒的な力を持った新しい価値観が二人に等しく降り注ぐしかない。
「爆弾」になるはずだった、辛亥革命は、中華民国は、果たしてそうはならなかった。旧来依存の体質は変わらず、魯迅は党から去った。私とルントウにはもう、お互いの隔絶の壁を打ち壊す時間も気力も意欲も、残ってはいない。だからこそ、お互いに別の方向を向き、そのなかで「良い方」を探すしかないのだ。それが私には「希望」であり、ルントウには「香炉と燭台」なのだ。
この「故郷」に出てくる「変化」は悪いことなのだろうか?
これは意見が分かれそうである。ルントウの変化は私たちから見れば哀れであり、同情すべき負の変化だ。だが、彼は現在の社会に疑問を持っているわけではない。ただ、辛く厳しい世界に順応したのだ。それはある意味で正の変化ともいえるだろう。
では、私の変化は正の変化だろうか。故郷を寂しいものとしか見れなくなったことを負と取るものもいるだろう。また、社会を変えたいと願うようになった故の変化だとして、正の変化と捉えるものもいるだろう。
それはどちらも正解だろう。私の変化とルントウの変化で違うのは、私はその変化を選び取ったことにある。どちらの方向にも大なり小なり、それなりの幸せは存在する。ただルントウは「変わらない」ことを選び、私は「変わる」ことを選んだ。だからこそ、私は故郷と決別をしたのだ。故郷とは変わる前の自分の象徴なのだから。
子供にそこまで伝えるのは難しいかもしれない。だが、前時で彼らは「見極め、選び取った結果が現在なのだ」ということを知っている。そこからアプローチをすれば、私とルントウの変化の違い、そして故郷と決別しなければならなかったことに気づくことができるかもしれない。
よく「仕事に対して真面目だねぇ」と言われるのですが、これただの趣味だからね!
こういうことを考えるのが趣味なので、私の今の仕事はまさに趣味と実益を兼ねた仕事なのですな!
めんどくさいこと考えながらご飯食べてました。あ、美味しいですよサポーレ(名古屋駅地下)のとまとすぱげっちー。
魯迅「故郷」について
「故郷」は変化の物語である。
故郷に帰った私は、久方に見た故郷が侘しく、活気のない、重苦しい雰囲気の場所と感じる。しかし、故郷は実は何も変わってはいない。変わったのは人間の方で、人間の価値観の変化がそう思わせるのだ。
価値観の変化した私にとって、ルントウは旧来のしきたりに縛られ、古い中国の社会の体現者であり、被害者として映る。
豆腐屋小町のヤンおばさんは、老いの醜さと人間の浅ましさ、文化レベルの低さを表している。
ホンルは、昔の自分を第三者的に見たものであり、昔の自分自身であり、またそうではないともいえる。同じ道を歩んで欲しくない、新しい生活を歩むべき存在だとして、すでに自分の希望を託しているのだ。それは、魯迅の考える「希望」が容易に叶うものでないことを示しているのだろう。だからこそ、早々に彼は次の世代に託す道を考えたのではないか。
それが「手に入りにくいもの」ということなのだろう。
ルントウの視点から見る変化はどうだろう。
生徒の感想に「なぜ、寂しさと喜びが同時に浮かんだのか」と疑問に思ったとあった。ルントウからしてみれば、私は遠い存在の人間である。否、遠くなってしまった人間である。子供時代のルントウには身分という価値観がなかったから、私と彼は対等であった。しかし、私の価値観が変化したように、彼の価値観も変化したのだ。彼の中で身分差は絶対で、社会は悪くなる一方で、常に真綿で首を絞めるが如くの苦しみに満ちている。
長らくあわなかった間に、大きく価値観を変化させた二人が再開したとき、二人の間に隔絶の壁が現れるのは当然のことだろう。それを壊すには、築き上げた人生の時間と同じだけの時間をかけるか、爆弾のように圧倒的な力を持った新しい価値観が二人に等しく降り注ぐしかない。
「爆弾」になるはずだった、辛亥革命は、中華民国は、果たしてそうはならなかった。旧来依存の体質は変わらず、魯迅は党から去った。私とルントウにはもう、お互いの隔絶の壁を打ち壊す時間も気力も意欲も、残ってはいない。だからこそ、お互いに別の方向を向き、そのなかで「良い方」を探すしかないのだ。それが私には「希望」であり、ルントウには「香炉と燭台」なのだ。
この「故郷」に出てくる「変化」は悪いことなのだろうか?
これは意見が分かれそうである。ルントウの変化は私たちから見れば哀れであり、同情すべき負の変化だ。だが、彼は現在の社会に疑問を持っているわけではない。ただ、辛く厳しい世界に順応したのだ。それはある意味で正の変化ともいえるだろう。
では、私の変化は正の変化だろうか。故郷を寂しいものとしか見れなくなったことを負と取るものもいるだろう。また、社会を変えたいと願うようになった故の変化だとして、正の変化と捉えるものもいるだろう。
それはどちらも正解だろう。私の変化とルントウの変化で違うのは、私はその変化を選び取ったことにある。どちらの方向にも大なり小なり、それなりの幸せは存在する。ただルントウは「変わらない」ことを選び、私は「変わる」ことを選んだ。だからこそ、私は故郷と決別をしたのだ。故郷とは変わる前の自分の象徴なのだから。
子供にそこまで伝えるのは難しいかもしれない。だが、前時で彼らは「見極め、選び取った結果が現在なのだ」ということを知っている。そこからアプローチをすれば、私とルントウの変化の違い、そして故郷と決別しなければならなかったことに気づくことができるかもしれない。
よく「仕事に対して真面目だねぇ」と言われるのですが、これただの趣味だからね!
こういうことを考えるのが趣味なので、私の今の仕事はまさに趣味と実益を兼ねた仕事なのですな!